操体関連新刊:からだのつかいかた・ととえかた イラスト版

イラスト版からだのつかい方・ととのえ方―子どもとマスターする42の操体法

イラスト版からだのつかい方・ととのえ方―子どもとマスターする42の操体法

新しい本の紹介があったので、早速購入して読んでみた。B5版の大きめの本で、イラストがふんだんに使われている。子供に対するからだの使いかた、動かし方がテーマである。

子供が歪んできていると言われるが、受講生である保育士の先生に聞いてみると、確かにそうらしい。中学の体育の先生に聞いてみても、まっすぐ立てない、集中力がない、すぐ貧血を起こす、猫背が多いなどの答えが返ってきた。「子供は風の子」なんていう言葉は今や死語なのか???

内容的には非常に読みやすく、連動は末端関節からである等、最近の操体臨床関連書籍の影響もみられ、研究されているのがわかる。教育現場で活用していただきたい一冊だ。

また、般若身経をはじめ日々のからだの使い方、動かし方のヒントはためになる。ここまで子供の日常的動作について書いてあるのは確かに画期的である。『万病を治せる・・』の現代版+子供版というところか。姿勢が悪い子供に「しゃっきりしなさい」とか「姿勢正しくしなさい」と言ってもなかなか伝わらないと思う。そういう場合でも「手は小指」「足は親指」というからだの使い方を教え、足の指でも揉んであげれば(これは上手くやると本当にキモチイイですから)『ママ、またやって』と親子間のコミュニケーションがはかれるののは勿論、子供のからだが変わっていくのがわかると思う。

★一つ言えば、P35 机で書き物をする時、紙をななめに置くと、脇が開いていけない、と書かれている。

これに関しては、『縦書きの文字を書くときは』という条件がある。横書きの場合は紙を横にしてペンを持つ手と反対の足を少し手前に出せば脇は開かない。

私は会社員時代外資系に勤務していたが、あちらの方は左利きが多いせいもあるのか、紙やノートをまっすぐには置かない。からだはまっすぐで、紙が斜めなのだ。当時から「何で彼らは何故ああなんだろう?」と思っていたが、身体運動の法則を勉強して、「縦書きと横書きの場合は違うのだ」と気がついた。国語のノートや習字だったら紙やノートはまっすぐに置くべきなのだ。

同様にパソコンのディスプレイとキーボードをまっすぐ正面に置いたり、ノートブックパソコンをまっすぐ置いて作業をして、カラダを歪ませるケースが見られることがある。私は右利きなので、椅子腰掛ける時上体を少し左に向け、左膝を少し前に突き出す。キーボードは体に合わせて少し斜めに置く。

★本と言えば、私も初めて書いた本にいくつか間違いがあり、増刷の機会に恵まれないため訂正個所をホームページで紹介しているし、三浦先生も連動関連では、常に検証を繰り返しもし、訂正すべき箇所があった時は、増刷版で改定する、ホームページで公開するなど、最新の情報公開をするよう心がけている。
このような増補改訂は学問にとっては重要なことなのである。

******

「この本はプロ向けの本じゃない」というご意見もあるかもしれないが、これが小学校などに配布され、指導教諭等指導のプロが「楽」と「きもちよさ」の混同をしては困るので書いておく。

★この区別が曖昧なので、「どちらがきもちいいかわからないから操体って難しい」とか「どちらがきもちいいかわからないので、動きやすいほうをとりあえずやっている」と、臨床に結果を出せない場合が多いのである。

15P からだを伸ばすとき、右手を伸ばして物を取る時は右足に重心、これはOKだが、「腰を右に」ではないのではなく、「右体側が伸びる」「右脇腹が伸びる」と書くのが妥当だと思う。腰を右に、では側屈と同じだ。

★蛇足であるが、あるところでは側屈を『脇伸ばし』と言い替えている。これは、側屈をした人から不快を訴えるケースが多いので、側屈ではなく「脇伸ばし」にしたということである。

★★これは、おそらく自然体立位で『膝のちからをホッと抜くことをしていなかったのである。膝の力をホッと抜くと、拇趾の付け根に体重が乗る。膝を伸ばしたままだと体重が踵にかかるので、伸ばしたままで側屈すれば不快なのは当然だ。なお、『膝の力をホッと抜く』と記載されているのは、書籍では『からだの設計にミスはない』のみ。「万病」には書かれていないので、口絵のお姉さんは膝を美しく伸ばしている。

P16。最近は操体でも「ガンバロー」というのだろうか、というのは私のツッコミ。
橋本敬三先生の言葉に「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」という教えがある。近頃の子供は少しくらい鍛えてハッパをかけようという著者の意図かもしれない。

あと、残念なのは「楽」と「きもちよさ」の区別が明確にされていないということ

楽なら楽で二者択一の瞬間急速脱力でいいのだが、きもちよさをききわけさせるのであれば、一つひとつの動きに快適感覚があるのかないのかという問いかけをすべきである。

これは操体業界(?)に最近広まってきた「快適感覚」という言葉の弊害かもしれないが、「きもちよく」と言いながらも実は「楽でスムース」な動きをききわけさせているに過ぎない。
★実際、操者の言葉のマジックで『楽』なのに『きもちよく動いて』と言われ『楽』をとおし味わった場合ではなく、本当にきもちよさを味わっている場合には、瞬間脱力はできない。というかもったいなくて出来ない(笑)
ご馳走を口に運ぼうとしている時に、横からかすめ取られたくらい勿体ない。

★また、本当にきもちよさを味わっている場合には、回数は大抵1回、多くて2回である。きもちよさと操法の回数は反比例する。2〜3回と回数を決めているのはおそらく『読者には指針が必要だから』『読者に何回やればいいのか聞かれるから』と、「きもちよく」と言いながらも実は『楽』をとおしているからなのだ。

★最近、「何故昔は単純な『楽なほうに動かしてストンと瞬間脱力』でも良かったのですか?」
と聞かれた。いい質問である。

『万病を治せる妙療法』は農文協刊行の『現代農業』に連載されていたものを編纂したものである。『地湧の思想』にも少し書かれているが、『農業高校をでたばかりの人でもわかるように』書かれた(筆者意訳多少アリ)ものである。当時の日本の農村は今とは状況がかなり違っていたと思う。おそらく農業従事者が訴えるのは農業の労働や生活の中の「息食動想」のバランスの乱れからくるものだったと思う。簡単に言えば『息食動想』のバランスをとれば『間に合った』のである。
しかし、今現在、「息食動想+環境」という考え方の根本は変わらないのだが、特に「想」と「環境」の部分が大きく変わった。大気汚染や食の汚染などは昔から言われてきたが、心身症の増加、アレルギー症の増加(昔はこんなに花粉症で悩む人はいなかったと思うし、そもそも花粉症という言葉がなかったし、最近聞いたところによると、鬱の発症最低年齢は小学一年生だという)などで、愁訴が複雑化かつなおりにくくなっているのだ。


様々な環境のせいもあるのだろうが、これは何から来ているかというと「きもちわるい」(不快)な生活をしているからなのだろう。
解消する一番の
方法は『きもちのよさ』をききわけ、味わうことなのだ。

きもちわるさ(不快)に対して、「楽」をとおし与え、口のみで「きもちよく」と言っても『楽』し与えていないのでは、『気持ちよさ』をからだにとおし、味わった(そういえば「楽」を味わう」って言わない)ほうが、「なおりがいい」のは当たり前なのだ。

★また、本書は「足趾を揉む」操法も掲載されている。これは両足のユビを揉んだりつまんだり引っ張ったりするが、これはきもちいい。たまに幼児にやることがあるが、「またやって」と言われる、あるいは黙って私の前に足を出すことが多い。操法の中でも『自分でやるのは面倒だけど、足の指を揉んでもらうのは好き』という方は多い。それは何故かというと、きもちいいからである操体で言う自力自療とは、本人にしかわからない感覚を、ききわけ、味わうことなので、この際誰かが足を揉んでくれていても、自力自療なのだ)。

これを、どちらか一方ずつ揉んで「どちらかきもちいい方を何回かやります」というのはどうだろう。というかこれは『どっちもきもちいいから、どっちもやって』となるに違いないのである。
また、この操法で『どちらが楽ですか』と聞いても『きもちいい』とか『イタキモチイイ』という答えが返ってくる場合のほうが多いはずだ。『楽』よりも『きもちよさ』のほうがインパクトが強いからである。本人がきもちよさを味わっているのに『どちらが楽ですか』という質問は場違いなのだ。

例えば、P83 に仰臥足関節の背屈(つま先あげ)と膝の左右傾倒(ひざ倒し)が載っている。いずれも一人で行うものであるが、一人で行うもので、
・仰臥足関節の背屈
・仰臥膝二分の一屈曲位
の二つは、
介助や補助があるか、連動の知識があるか、誰かが言葉の誘導で連動を促さないときもちよさはききわけにくい。なので、このように「倒す」「末端関節を反らす」という動きを考えると、橋本敬三先生の現役時代は『楽』方向に動かす、そして終わってから再度動かしてみて、最初よりROMが大きいことを確認されていた。なので、『楽』をとおしておられたと考えている。

というか、この有名な2つの操法で「快適感覚をききわけ、味わう」には前述のような条件()が必要なのである。なので当然「やりやすいほうに」というように書かれていてもおかしくないのだ。

しかし、その下の半身のばし(これは手と足を同時に伸ばしている)では、『左右比べて差を感じたらきもちよく伸ばせるほうを2~3回伸ばします』と書かれている。

★上記二例に比べ、この動きは「伸ばす」という動きなので、伸びてきもちがいいというケースは比較的多いと思う。
★何故「左右差」が「きもちよく伸ばせるほう」になるのか。きもちよく伸ばせるとは限らないし、痛いほうが
あるかもしれない。どちらもきもちいい場合はどうするのか。

これが『左右ためしてみて、やりやすいほうを2~3回やりましょう」とすれば問題はないのだが、このケースで
『きもちいい』という言葉を用いるのだったら

『どちらかからゆっくり試してみてきもちよかったらそのまま続けましょう。きもちよさがなくなったら止めて構いません。反対側も試してみて、こちらもきもちよかったら、そのまま続けましょう。こちらもきもちよさがなくなったら止めて構いません。』(簡略版)

『まず、左右どちらでもいいので、ゆっくり試してみます。きもちいい感じがあったら、そのままきもちいいだけ
味わいます。痛みや不快感があったらその動きはやめましょう。おわって一息ついて、もういちど試したければ
もう一度ためします。反対側も試してみます。こちらもゆっくり試してみてきもちいい感じがあったら同じように
きもちいいだけ味わってください。何ともない場合は、バランスがとれているか、早く動きすぎの場合があるので、ゆっくり試すことが大切です。』(フルバージョン)

★本人がやるのは『快適感覚をききわけ、味わいたいだけ味わう。回数と脱力のしかたは、からだの要求に委ねる』ということだけなのでいたって「からだ」にとってはシンプルである。その代わり操者が忙しいのだが。

逆に楽なほうに動かして、操者の誘導に従ってたわめて、操者の合図と共に瞬間急速脱力し、回数は2~3回というやり方は、操者にとってはシンプル(あるいは被験者のエゴにとっても)だが、からだにとっては全然シンプルではないのである。

★これは、おそらく読者からくるであろうと思う質問。

・どちらもなんともない(どちらも楽でスムースである)
・どちらか痛い、あるいは辛い時(私が読んだ限りでは、そういう際の注意が抜けている。書いてあるかもしれないが、これはしつこい位に書くべきである)
・どちらもきもちいい場合
・やる早さは?(これも「ゆっくり」と、しつこい位書くべき)

★子供に対して操体を行う場合だが、子供であればあるほど、気持ちよさに敏感である。例えば「楽しい」とか「おもしろい」も快適感覚の範疇に入ると考えてよい。それを考えると、子供は瞬間脱力が好きである。瞬間脱力は面白いらしい。

★瞬間脱力をさせる場合、『ハイッ、ストン』と言うと、『ハイッ』で抜いてしまうケースが多い。これは操者にとっては何ともないのだが、被験者のほうが「あ、抜くタイミング間違えちゃった」と自分で気まずくなるケースが多いように思う。気まずくなると当然その後の動診操法に障るので、これを回避するにはどうすればいいか考えた。『ハイッ』と言わなければいいのだ。この『ハイッ』の言い方も上手い方は使ってもいいと思う(この辺は『自己責任』)。

★以上つれつれと書いてみたが、この文章に対して何かご意見があればお知らせ願いたいと思っている。勿論真剣に考えるつもりだ。