読書日記「かみさまのおはなし」

私の父(橋本敬三先生逝去の一週間前に急逝)は、某テレビ局のワイドショーの制作をしていた。秋篠宮様紀子様がご成婚に至るまでの取材などもやっていたような気がする。

一方私は子どもの頃から、日曜は「皇室アルバム」と「兼高かおる世界の旅」を見ていた。夏になると「ナスのゴヨウテイ」に避暑に行くとか、女性皇族の方は、いつも帽子を被っているとか、なんだか面白かったのである。

特に、美智子様は、子どもの目から見ても、なんてキレイで品がある人なんだろう、優しそうなお母様だな、と思ったものだった。

 

というわけで時は流れ、令和になった。

 

かみさまのおはなし

かみさまのおはなし

 

 

この本は、

美智子さま

天皇陛下に読み聞かせた

子どものための

古事記が」が復刻

 なのだそうである。

 

戦前に大阪で幼稚園を経営していた藤田ミツさんが、子どもたちに日本の神話に親しんでもらおうと、昭和15年に「古事記」をやさしく書き換えたものだ。オリジナルはカタカナで書かれていたらしいが、昭和41年、ミツさんは浩宮様にも読んで頂きたいと、ひらがな版を出した。そして、今回、三度目の発行が「令和版」である。

 

これは「読み聞かせ」の本ではないだろうか。

というのは、

「もやもや むくむく」(雲と海)や

「けーん けーん」(キジの鳴く声)など、オノマトペが結構でてくるのだ。

 

 

古事記は色々しらべてみると面白いことだらけであるが、それについては今日は割愛する(稗田阿礼自体が実在の人物かどうかわからないとか、女性であるとか諸説ある)。

 

開いてみると、

  1. 高天原のまき
  2. 出雲のまき
  3. 高千穂のまき
  4. 大和のまき

となっている。

子ども向けとはいえ、いや、子ども向けに易しい(やさしいというのは、簡単という意味だけではなく、藤田ミツさんの、子どもにわかりやすく伝えたいという気持ちがこもっているということだ)からこそ、大人が読んでもすっと入ってくるのだ。

 

この本でまず目を引くのは、挿絵の面白さだ。

 

見返しには、大八島(おおやしま)の国として、日本が描かれている。

本州、佐渡島隠岐の島、淡路島、伊予の島(四国)、筑紫島(九州)、壱岐の島、対馬で、八州である(北海道はない)。古事記の時代、北海道はまだカウントされていない。

 

表紙裏の見返しには、大八島因幡のしろうさぎとワニザメの可愛らしい絵が書かれている。裏の見返しには、大八島と、あめのうずめのみことが、さるたひこの行方を海の貝やタコ、カニに聞いている絵が書かれている。

 

伊勢の猿田彦神社の中には「さるめ神社」がある。さるめとはあめのうずめのみことのことであり、天岩戸の前で、隠れてしまったあまてらすおおみかみの気を引くために、桶を伏せたものの上に上がって踊る。これによって、あめのうずめのみことは、日本で最初の「パフォーマー」として、現在もさるめ神社に芸能の神様として祀られている。

有名なのは、あめのうずめは、最強のナイスバディ(笑)の持ち主であったそうだが、顔は美人というよりは「愛嬌」があったと言われている。この裏見返しのあめのうずめのみことは、すごく「おかめ顔」に描かれているのだ。そういう細かいところも面白い。

 

さて、話は戻って「国生み」の話だ。世界がまだ混沌としていて、海と雲ばかりだったころの挿絵をみると、海と雲にそれぞれ顔が描いてある。昔は海と雲もかき混ぜた卵の白身と黄身のようにごちゃまぜだったのだ。そこで、軽い雲は空に、重い水の海は下に行って、天地がわかれる。天地創造だ。カオスから天と地にわかれて、はじめて日が昇り、夜が明けるところが書かれているが、大人が読んでも「なるほど」である。

 

そこからは、三柱の神様が生まれ、若いいざなぎのみことと、いざなみのみことが国を作るようにと、二人に「あめのぬぼこ」を持たせて地上に行かせるのだ。

 

このカップルが国生みをする話は、有名といえば有名なのだが、この辺りは子ども向けということもあり「ボクのでっぱってるところと、キミのへこんでるところを合わせて国生みしない?(意訳)」という記述や、最初に女神が声を発したのでヒルコが生まれてしまい、海に流したという話は書かれていない。

 

また、いざなぎのみことが火の神を産んだ際、女陰を火傷して亡くなったとか、その後、黄泉の国に行ったいざなぎのみことを追っていったいざなぎのみことが「見ちゃいけない」と言われたのに、見てしまったところ、変わり果てた妻の姿を見て、おそろしくなって逃げるところとか、その辺りもやんわりとぼかされている。

すさのおのみこと神殿脱糞事件なども当然ながら書かれていないが、それは細かくしっている大人の目だ(本当はこの辺りが一番面白いと言えば面白いのだが)

 

言うなれば、そういうことは大人になってから「三浦口語訳古事記」とか読めばよいのだ。

 

先にも書いたが、この本は実際に声に出して読んでみることをお薦めする。

子どもに読んであげてもいいし、自分自身に読み聞かせるのもいい。

 

 

 

 

読書日記「かみさまのおはなし」

私の父(橋本敬三先生逝去の一週間前に急逝)は、某テレビ局のワイドショーの制作をしていた。秋篠宮様紀子様がご成婚に至るまでの取材などもやっていたような気がする。

一方私は子どもの頃から、日曜は「皇室アルバム」と「兼高かおる世界の旅」を見ていた。夏になると「ナスのゴヨウテイ」に避暑に行くとか、女性皇族の方は、いつも帽子を被っているとか、なんだか面白かったのである。

特に、美智子様は、子どもの目から見ても、なんてキレイで品がある人なんだろう、優しそうなお母様だな、と思ったものだった。

 

というわけで時は流れ、令和になった。

 

かみさまのおはなし

かみさまのおはなし

 

 

この本は、

美智子さま

天皇陛下に読み聞かせた

子どものための

古事記が」が復刻

 なのだそうである。

 

戦前に大阪で幼稚園を経営していた藤田ミツさんが、子どもたちに日本の神話に親しんでもらおうと、昭和15年に「古事記」をやさしく書き換えたものだ。オリジナルはカタカナで書かれていたらしいが、昭和41年、ミツさんは浩宮様にも読んで頂きたいと、ひらがな版を出した。そして、今回、三度目の発行が「令和版」である。

 

これは「読み聞かせ」の本ではないだろうか。

というのは、

「もやもや むくむく」(雲と海)や

「けーん けーん」(キジの鳴く声)など、オノマトペが結構でてくるのだ。

 

 

古事記は色々しらべてみると面白いことだらけであるが、それについては今日は割愛する(稗田阿礼自体が実在の人物かどうかわからないとか、女性であるとか諸説ある)。

 

開いてみると、

  1. 高天原のまき
  2. 出雲のまき
  3. 高千穂のまき
  4. 大和のまき

となっている。

子ども向けとはいえ、いや、子ども向けに易しい(やさしいというのは、簡単という意味だけではなく、藤田ミツさんの、子どもにわかりやすく伝えたいという気持ちがこもっているということだ)からこそ、大人が読んでもすっと入ってくるのだ。

 

この本でまず目を引くのは、挿絵の面白さだ。

 

見返しには、大八島(おおやしま)の国として、日本が描かれている。

本州、佐渡島隠岐の島、淡路島、伊予の島(四国)、筑紫島(九州)、壱岐の島、対馬で、八州である(北海道はない)。古事記の時代、北海道はまだカウントされていない。

 

表紙裏の見返しには、大八島因幡のしろうさぎとワニザメの可愛らしい絵が書かれている。裏の見返しには、大八島と、あめのうずめのみことが、さるたひこの行方を海の貝やタコ、カニに聞いている絵が書かれている。

 

伊勢の猿田彦神社の中には「さるめ神社」がある。さるめとはあめのうずめのみことのことであり、天岩戸の前で、隠れてしまったあまてらすおおみかみの気を引くために、桶を伏せたものの上に上がって踊る。これによって、あめのうずめのみことは、日本で最初の「パフォーマー」として、現在もさるめ神社に芸能の神様として祀られている。

有名なのは、あめのうずめは、最強のナイスバディ(笑)の持ち主であったそうだが、顔は美人というよりは「愛嬌」があったと言われている。この裏見返しのあめのうずめのみことは、すごく「おかめ顔」に描かれているのだ。そういう細かいところも面白い。

 

さて、話は戻って「国生み」の話だ。世界がまだ混沌としていて、海と雲ばかりだったころの挿絵をみると、海と雲にそれぞれ顔が描いてある。昔は海と雲もかき混ぜた卵の白身と黄身のようにごちゃまぜだったのだ。そこで、軽い雲は空に、重い水の海は下に行って、天地がわかれる。天地創造だ。カオスから天と地にわかれて、はじめて日が昇り、夜が明けるところが書かれているが、大人が読んでも「なるほど」である。

 

そこからは、三柱の神様が生まれ、若いいざなぎのみことと、いざなみのみことが国を作るようにと、二人に「あめのぬぼこ」を持たせて地上に行かせるのだ。

 

このカップルが国生みをする話は、有名といえば有名なのだが、この辺りは子ども向けということもあり「ボクのでっぱってるところと、キミのへこんでるところを合わせて国生みしない?(意訳)」という記述や、最初に女神が声を発したのでヒルコが生まれてしまい、海に流したという話は書かれていない。

 

また、いざなぎのみことが火の神を産んだ際、女陰を火傷して亡くなったとか、その後、黄泉の国に行ったいざなぎのみことを追っていったいざなぎのみことが「見ちゃいけない」と言われたのに、見てしまったところ、変わり果てた妻の姿を見て、おそろしくなって逃げるところとか、その辺りもやんわりとぼかされている。

すさのおのみこと神殿脱糞事件なども当然ながら書かれていないが、それは細かくしっている大人の目だ(本当はこの辺りが一番面白いと言えば面白いのだが)

 

言うなれば、そういうことは大人になってから「三浦口語訳古事記」とか読めばよいのだ。

 

先にも書いたが、この本は実際に声に出して読んでみることをお薦めする。

子どもに読んであげてもいいし、自分自身に読み聞かせるのもいい。

 

 

 

 

「気の幸福力 気心道とタオ指圧(書籍版)

気の幸福力―気心道とタオ指圧 (-)

気の幸福力―気心道とタオ指圧 (-)


以前こちらはPDF版で読んだのだが、書籍として改めて読んでみた。
前回もブログで紹介しているが、前回とは少し別なところが気になった。

「近年のスピリチュアリズムはなぜ浅薄か」というところがやはり気にかかる。
ヒーリング(癒し)を皆が求めているのはよくわかるのだが、やけにポジティブで明るいのだが、何故かうすっぺらいモノを感じるのは事実である。

これは、操体の「想」の実践を「明るく大らかに生きましょう」というのに似ている。現代は明るく大らかに生きることが大変(いや、現代と言わず)で、それができないから皆悩むのだ。明るく楽しいフリをするのも一つの手かもしれないが、果たしてそれで間に合うのか。
★実際のところ「明るく大らかに生きましょう」と声高らかにうたっているところは何か胡散臭いし「世のため人の為」とか「人様のお役に立ちたい」と言っているところも胡散臭い。

それだったら「想」の実践を「言葉を統制する」「感謝の心」に絞ったほうがより現実的なのではないか。言葉の統制は、いくら頭の中で罵詈雑言が浮かんでいても、「ありがとうございます」などのマジック・フレーズを口に出せばよいという「実践のすすめ」である。また、無理に明るく大らかにするのだったら「今日も元気で目が覚めました。ありがとうございます」と、シンプルに感謝するほうが実践しやすいのではないだろうか。

最近のいわゆる精神世界(スピリチュアル系)は、自己の内面に潜むネガティブな感情に対する内省が足りないものがほとんどのように思うのは、一人私だけでしょうか。最近身請ける多くのスピリチュアリズムは、美しいポジティブな言葉で飾られています。しかし、影と対決し、光と出逢うというテーマが見当たりません。

つまり「死」の問題を避けてるわけなのだ。また、遠藤先生によると、自分の内なる光しか見つめないと、「影」の存在(死や自分の中のダークな部分)を、外部に投影することになる。つまり、自分は光に満ちた正しい存在である。その代わりに、自分以外の「外」に「影」の変形である「悪」を投影することになる。
面白いことに、スピリチュアル系の方々の中には、仏像を拝むことができない方がいるらしい。仏様は神々しい存在であるが「あの世」の存在をイヤでも認識せざるを得ない。

橋本敬三先生は「みんな行くんだからきもちいいとこに決まってる」という名言を残している。師匠はよく「死ぬんだ、じゃなくて死ねるんだ」という。私はちょっと控えめに(笑)「お迎えがくる」くらいか。

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

対称性人類学 カイエ・ソバージュ 5 (講談社選書メチエ)

先日「対称性人類学」を読んだ。仏教は宗教ではなく、哲学なのだと改めて認識。

チャネリング・カード

日本誕生数秘学協会の「誕生数秘学カウンセラー」の認定を受けました。
つまり、お金を頂いて、誕生数秘学のカウンセリングをしてもいいということ。数年前から勉強していたのですが、やはり一度正式に勉強しようと思い、真面目に(笑)勉強しました。

やはり、ちゃんと勉強してみるものです。本ではわからないポイントも勉強できました。

ゆっくり座って教材のDVDを観る間がないので、DVDは変換して、iPhoneで移動時間にチェックしたので、比較的じっくり観ることができました。数週間、移動中に本が読めなかったのですが、それも現在元のペースに戻ってます。

一体どんなものか?
こんな感じです。

「数秘術」とか、誕生日からナンバーを出すのは結構ありますが私がやっているのは「誕生数秘学」です。はづき虹映さんがカバラの数秘術にヒントを得て体系づけたもので、

人生単位「誕生日占い」「生まれた日・前世占い」「すうじ・記念日占い」というのがあります。

この辺りはお遊び感覚でやったことがあるヒト、多いかもしれません。実は、どこか出張に行った際、駅の売店で、ひまつぶしに「生まれた日・前世占い」の文庫本を買いました。

そうしたら、結構当たってるんですよね。それも、自分だけじゃなくて、周囲の人達も。

基本的に、誕生日を西暦から一桁ずつ足していきます。例えば 1980年6月25日生まれだったら、 1+9+8+0+6+2+5=31 になります。これをまた分解して、3+1=4 「4」が誕生数(エンジェル・ナンバー)になります。また、足していって11、22、33になった場合は、そのままにします。エンジェル・ナンバーは「1〜9」「11」「22」「33」

エンジェル・ナンバーの他に「過去数」(スピリチュアル・ナンバー)と「挑戦数」(チャレンジ・ナンバー」というのがあり、この3つを使って読み解くと、相当細かいことがわかります。例えば、相性とか。

年月日単位(9つの波のサイクル)は、9年周期で訪れるサイクル(種まきから、収穫まで)をみるものです。

例えば、今年2012年の私のサイクルは? 西暦に「生まれた月日」を一桁ずつt足していきます。私は5月19日生まれなので、2012年5月19日から2013年5月18日までの一年間のサイクルは 2+0+1+2+5+1+9=20 →「2」となります。
誕生日を起点にします。今年まだ誕生日前の場合は、昨年の「2011年」を2+0+1+1に生まれた月日を一桁ずつ足して算出します。11と22の場合はそのままにします(33もありますが、しばらく来ないようなので除外)。

「2」は協調。「1」で始めた事に対する覚悟が試される年です。「1」で始めた事と言えば、社団法人の設立とセッティングです。2010年に設立し、去年操体プラクティショナーの認定事業を正式に始めました。「2」の年はこれをじっくり育てなさいということでしょう。とにかく今年は地味に耕す年なのです。

一方、三浦寛師匠は9月13日生まれなので、2+0+1+1+9+1+3=「8」。実り、収穫のサイクルです。今年の9月12日までが「8」で、9月13日から一年間「9」のサイクルに入ります。実りを収穫、美味しい実を収穫した後、今までやってきた事を一旦完成させ、次の新しい9サイクルに向けて、準備する時期です。
7月16日の「操体マンダラ」は、まさに「実りの収穫」といったところです。

ビジネスなどの鑑定にも使います。例えば「BN(バースデーナンバー、スピリチュアル・ナンバー、エンジェル・ナンバー、チャレンジ・ナンバーの3つを、バースデーナンバーと言います)3-1-5のパートナーと今年新たなビジネスを始めたいが、相性と事業立ち上げのタイミングは」というのも、読み解けます。

ちなみに、私がこの世界(手技療法)に入った時と、離婚して心機一転したのが、両方ともサイクル「1」新たなことを始める、種蒔きのサイクルでした。大病した時は「大波乱」の意味もある「22」だったりして、思わず感心しました。

そして「今、どうしたらいいのか」という問いに答えを出すのが「チャネリング・カード」。これはiPhone のアプリもありますし、カードも売っています。一枚引き、二枚引き、三枚引き、四枚引きがありますが、私はシンプルな一枚引きが割と好きです。

先日、カウンセラーの講習で二人一組でチャネリング・カードを使った練習をしました。三枚引きで、あることを相談内容にしました(ちょっと迷っている事がありまして)。

そうしたら、カードを細かく読み解く前に「答えが示されて」いたんです。これには驚きました。

また、今日は何だか日曜疲労(笑)が残っていたのと、何だか調子がイマイチだったので「今の自分にとって一番大切なこと」という気持ちでカードを引いてみましたが、引いたのは「ボディ ポジティブ7の『休息』」。あまり飛ばさないで休みなさい、休んでもいいんですよ、
というメッセージでした。ここ数ヶ月突っ走ってきたので「休んでもいいのか」と、肩を押してもらったような感じ。まあ、休んでも今度は猛烈に動き出したくなるのは分かっているんですけどね。

【誕生日占い】幸運を招く「9つの波」

【誕生日占い】幸運を招く「9つの波」


はづき虹映のザ・チャネリングカード

はづき虹映のザ・チャネリングカード

誕生数秘学カウンセリング、始めます。

テルマエ・ロマエ

テルマエ・ロマエ I (BEAM COMIX)

テルマエ・ロマエ I (BEAM COMIX)


自慢すべきことだと思っているが、私は「銭湯検定4級」(笑)を持っている。自宅の近くには銭湯があり、一度入り慣れてしまうと、シャワーだけだぁ?こんなぬるい風呂(母はぬるいのが好きらしい)では満足できん!なのだ。

私の両親は宮城の気仙沼生まれなのだが、母方(庄屋さんをしてたらしい)が、江戸時代から夏に湯治に行っている鳴子の温泉があり、幼稚園時代から小学生時代にかけて「夏休みは湯治だよ」という生活を送っていた私は相当な風呂好きなのである。

実際、私の周囲にも風呂で「あの世に行った」方も少なくない。しかし、風呂の中で「あ〜、極楽極楽」と最高にいい気持ちで、というのも人生の終え方の選択肢ではないだろうか。

このマンガを始めて読んだ時は驚いた。日本人も相当風呂好きだが、ローマ人も相当の風呂好きなのである。果たして風呂に入らない文化のフランス人が観たらどう思うのだろう。本当に素晴らしい作品である。

ローマ時代の浴場設計技師で建築家のルシウスが、浴場のアイディアに困り、現代日本にタイムスリップし、脱衣籠とかフルーツ牛乳とか、バナナワニ園とか、そのようなアイディアを古代ローマに持ち帰るというお話だ。

そして、これが映画化された。
http://www.thermae-romae.jp/index.html
イタリア人にも大受けだったらしい。フランスじゃこうはいかないだろうな。ヨーロッパも「風呂好き」と「風呂嫌い」ってあるし。

日本人キャスト、主演の阿部ちゃんは(阿部ちゃんのお尻を拝むだけでも価値あり)、まさにルシウス適役。その他日本国内でも「濃ゆい顔」の役者が揃って古代ローマ人を演じている。

いずれにせよ、風呂は素晴らしい文化である。銭湯もマナーを守って入ろう。

あ〜、また島根の玉造温泉の混浴露天風呂に行きたくなってきた(笑)

なお、日本の「ウォシュレット」は、海外の方にとっても素晴らしいものだそうです。日本ってすごいなぁ

東京スカイツリーと東京タワー「鬼門の塔」と「裏鬼門の塔

東京スカイツリーと東京タワー―鬼門の塔と裏鬼門の塔

東京スカイツリーと東京タワー―鬼門の塔と裏鬼門の塔


東西線が西葛西を出て、中川と荒川を越える鉄橋を渡るとき、右手前方にスカイツリーが見える。中川に沿って、そのまま歩き続けると葛西臨海公園に着くウォーキング用の道からは、東京タワーが見える。東京タワーは私にとって親しみ深いものだ。何だかスカイツリーにばかり注目が集まっているので何だか東京タワーが少し可哀想な気がしていた。「業平橋駅」というのは、昔用事があってよく行ったところだ。浅草に近い、しかし浅草ほど栄えていない下町という印象があった。

この本を読み終わって、最初に考えたのは、学生の頃読んだ高木彬光の「成吉思汗の秘密」に似ているなあ、ということだった。何だか懐かしくなって、また読みたくなったので一冊注文した。これは、昭和32年、名探偵といわれた神津恭介が東大病院に入院し、探偵作家の松下研三と暇つぶしに義経=ジンギスカン説の推理を始める。入院中の推理(ベッド・ティテクティブ)というのは、私が好きな「時の娘」と同じスタイルをとっている。

成吉思汗の秘密 新装版 (光文社文庫)

成吉思汗の秘密 新装版 (光文社文庫)


2008年12月25日のブログ参照

東京の鬼門、裏鬼門というと「帝都物語」好きはさておき、上野公園の五重塔と、芝の増上寺が大手町にある平将門公の首塚を守っているという話を聞いたことがあるかもしれない。
上野公園はほぼ浅草エリアにあると言ってもよい。また、東京タワーは増上寺の近くにある。
ある予言では「裏鬼門に立つ東京タワーが、鬼門に立つ東京スカイツリーを迎え入れる場合に限って、新タワーは不幸をまぬがれる」というものがあるらしい。これはネタばれなのでここには書かない。

帝都物語〈第壱番〉 (角川文庫)

帝都物語〈第壱番〉 (角川文庫)

城下町である江戸、門前町である浅草の違い、神田明神の歴史、日枝神社の意味、上野公園の西郷さんの像の目線のナゾなど、私にとっては非常に興味深い内容が続く。こうやって読み進めると、徳川幕府が江戸を首都と定めた時、天海僧正が如何に注意深く江戸の町をつくり、寺社を配置したのかよくわかる。

一方、この本には皇居のナゾも書かれている。天皇陛下のお住まいは、御所が新設される、あるいは改築されるその都度、大手門から離れていっているというのだ。これもネタバレになるので書かないが、こちらも興味深い。

著者細野透氏は、建築&住宅ジャーナリストであり、東大で学んだ一級建築士でもあるので、建築家、丹下健三の仕事と、東京都庁のナゾにも触れている。

読み進めていくと、東京は大いなる力で守られているのではないだろうかと思えてくるのである。東京直下型地震が心配されているが、東京タワーが東京スカイツリーを受け入れることによって、まぬがれることができるのではないかと思うのは、私の楽観だろうか。

つぶやくだけで心がスッキリする魔法の言葉(じゅもん)

つぶやくだけで心がスッキリする魔法の言葉 (王様文庫)

つぶやくだけで心がスッキリする魔法の言葉 (王様文庫)


タイトルをみただけでドン引きする人もいるかもしれない(笑)。
最小限必須責任生活(他者には代わってもらえぬ、自己責任に基づいた営み)「息食動想」の中で、操体は「想」、すなわち精神活動では「言葉」を重視する。言葉は運命のハンドルなのである。
私がよく言うことなのだが「明るく朗らかに生きましょう」という人に限って、明るく朗らかじじゃなかったりする。これは何故か。私の長年の疑問であった。また「世のため人のため」とか「人様を癒してさしあげたい」という言葉に、何だか胡散臭さを感じていたのも事実であった。
著者、はづき虹映氏は主に女性向けにスピリチュアルな本を書いているが、その根底に流れるものは、橋本敬三先生の哲学に通じるものがある。
ポジティブ思考に"うさんくささ"を感じるのはなぜ?」という一節がある。それは、ポジティブが良くて、ネガティブが悪いという単純な二者択一の考え方だ。

ほ〜ら、二者択一という「相対的思考」ではなく「どちらも、ある」という「絶対的思考」になるでしょ。第一分析から第二分析への移行みたいなものなのです。物事には裏表、宇宙には陰陽があるのです。

陰陽思想で、陽が良くて陰が悪いとか、男が優れていて女が劣っている、そんなことはないのだ。
普通はどこかからだを悪くした場合「膝が痛いから膝が悪い」とか「股関節が曲がらないから股関節が悪い」とか「腰が痛いから腰が悪い」という見方をすることが多い。本当は、有難いからだからのサインなのである。膝が痛いと言うと、年のせいだとか、膝の関節がすり減っているとか言われることが多いが、もしかしたら、体重過多のせいかもしれない。どこかに症状疾患があらわれるということは、原因が存在ということなのだ。

今でも印象に残っていることがある。ある勉強会で、師匠が新しい理論を紹介した。日進月歩で進んでいる師匠は常に新たなことを思考し、検証しているのである。
それは「今までやってきた(教えてきた)事」を覆す内容だった。それを聞いて、ある人が「それじゃ、今までやってきたことは全部ムダになるんですか」と言った。会場は一時静まりかえった。地雷ワードである(笑)。同席していたある人は『背筋が凍りました』と言っていた。
典型的な二者択一的な考え方である。ムダになるかというと、ムダにはならない。私はある時、最初に習った第一分析と、連動操体系のものを手放した。手放したからといって、それがムダになるのではないことは、後によくわかった。手放したものは、第二分析、第三分析、第四分析に十分応用できるし、引き出しとして十分役にたっているのだ。

ネガティブな感情と仲良くなる三つのコツ。ネガティブな感情を「認める」。ネガティブな感情を「味わう」。ネガティブな感情を「手放す」。

さて、これからの時代に必要なのは、ネガティブ思考でもポジティブ思考でもない、第三の思考「ニュートラル思考」だと、私は考えています。「良いわるい」をつけない、自分を責めない、他人を裁かない、ネガティブを受け容れ、ポジティブを重視しすぎないことでもあります。ポジティブにもネガティブにも偏らない、バランスを大切にした、中庸なものの見方、考え方です。

子供の頃から「頑張る」という言葉がどうも馴染めなかったのだが、操体に出会って「私と同じ考えの人がいるんだ」と感動した記憶がある。操体の教えには「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」という「バルの戒め」がある。
はづき氏は「頑張る、必死、努力」のかわりに「一生懸命、夢中、熱中」という言葉を使おう、と言っている。いいではないか。この違いは「やらされている」「自ら進んでやっている」の違いだ。

「すみません」という言葉は「相済みません」という昔から伝わる言葉である。相手に対して失礼なことをしてしまったので、自分の心が澄み切らないということからきている。感謝の意を表す「すみません」もあるが、これは「何もお返しできず、すみません」からきているそうだ。気になるのは「すみません」を無意識に連発する人だ。クライアントでも「すみません」の連発がクセになっている方は、治りが遅いような気がする。言葉くらいで?と思うかもしれないが、橋本敬三先生のおっしゃるとおりで「言葉は運命のハンドル」であり、それは必ず実現する。

「すみません」と口にするのは、無意識に「私には価値がない」と言っているのと同じことです。いくらポジティブなエネルギーを周りに与えていても、入ってくるエネルギーを、すべて「すみません」でブロックしてしまっていては、せっかくのポジティブなエネルギーも循環させることができません。

電車で席を譲ってくれた方に「すみません」というよりも「ありがとうございます」と言った方がエネルギーが循環するのだ。「すみません」を無意識に使っていた場合は、意識的に言葉を「ありがとうございます」に変えてみるといいというアドバイスが載っている。これは賛成。言われる方も、イイコトをしたのに「すみません」と言われるよりは「ありがとうございます」と言われたほうが嬉しいではないか。
「すみません」を無意識のうちに連発していると「スミマセンな人」になる。私は何人も見ている。「すみません」と言わざるを得ない状況に陥ってしまうのである。

もうひとつ気になるのは「おつかれさま」と言う言葉だ。疲れてもいないのに「お疲れ」というのも何だか気になる。なので自分では余り使わないようにしている。そういえば、驚異的にラッキー体質の平直行さん(フォーラム相談役)からメールをいただく時は、いつも「こんにちは。平です」から始まっている。多分これも「Lucky」に繋がっているのではと思う。
なお「疲れた」というのは「憑かれた」にも通じるらしい。「あなたは何かに取り憑かれていますね」ということか(笑)。はづき氏は「お元気様です」を奨励しているが、これはまだ使うには至っていない。そういえば、師匠は講習から帰る受講生には「行ってらっしゃい」という言葉をかけている。

結構誤解されやすいのが「みんなちがって、みんないい」という言葉だ。「あるがまま」というのは、「誰もがそのまま状態で素晴らしい存在である」ということを認めることだが、「あるがまま」というのを「何もしない」ことの言い訳や逃げ道に使わない姿勢が大切だ、とはdき氏は書いている。これも全く同感だ。親鸞の「悪人正機説」にも通じるものがあると思う。
女性はあるがままで素顔がいい、という男性に「髪の毛は伸び放題で、服を着ないで、風呂にも入らなくてもいいのか」ときくと大抵は「それはイヤだ」という。髪の毛は整えて、風呂にも入って、洋服も着て、風呂にもはいってほしいが、化粧はしないでいい(大抵は『自分以外のオトコの前で化粧をするなという意味があると思う)」という、面白い反応もあるが「あるがまま」というのは「何もしない」ということではない。